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宮﨑甚左衛門の名言に見る
文明堂カステラヒストリー
今でこそ多くの皆さまにご愛顧いただいている
文明堂ですが、
100年を超える長い歴史の中には、
さまざまな出来事がありました。
ここでは、文明堂の歴史を語る上で
欠かせない人物・宮﨑甚左衛門が残した名言とともに
数々のエピソードを振り返りたいと思います。
Jinzaemon Miyazaki
宮﨑甚左衛門
Profile
独創的な発想力と販売戦略により、文明堂の東京進出を成功へ導く。斬新なアイデアをどんどん提案し、周囲の人々を驚かせた。また文明堂の名キャッチコピー「カステラ1番、電話は2番」の生みの親でもある。
1900
明治33年
長崎に文明堂が誕生
甚左衛門の兄・中川安五郎が「文明堂」を長崎に創業。
1908
明治41年
甚左衛門、長崎の地へ
甚左衛門、18歳のときに故郷島原を出て長崎へ。酒屋・自転車屋・雑貨屋・船員を経て、兄が経営している文明堂で働くことに。行商として雨の日も風の日も、毎日決まった時間に市中を駆け回り、熱心に仕事をこなした。
町々の時計になれよ
小商人
これは、甚左衛門が好んでよく使っていた言葉。毎日毎日やってくる甚左衛門に、人々もやがて親しみの気持ちを持つように。
1916
大正5年
佐世保で独立、初出店
朝7時に開店し、夜11時に閉店。
なかなか売れず、試練の日々が続く。
1919
大正8年
東京進出を検討
必死の努力は次第に報われ、徐々に取引先を広げていく一方、ワシントン軍縮会議により軍港佐世保での商売が危ぶまれる事態に。これを機に東京進出を考えるようになる。
1922
大正11年
東京初出店を機に、
日本の
百貨店初の「実演販売」を実施
東京進出を決めた甚左衛門は、早速既存の取引先との繋がりにより東京の大手百貨店と契約。その百貨店から「東京に来てほしい」と言われ、東京での出店に踏み込む。そして、当時きわめて斬新な手法だった百貨店での【実演販売】を日本で最初に実践し、人々を驚かせた。
「足を止めて見る」ということは、
「買う」ことの
ホンの一歩手前である。
「箱に詰められたカステラは中身が見えず、不安を与える」という事実を「お客様の目の前で詰めれば、安心して購入いただけるのでは?」と逆転の発想に変えてしまうのが、甚左衛門のスゴイところ。食品に販売の日付を押印するようになったのもこのときから。
私は、お客様には
四通りあると思ってる。
第一は、直接のお客様。
第二は、間接のお客様。
第三は、人気のお客様。
第四は、声援のお客様。
以上四種類のお客様は、
商売をするうえに
どれも
欠けてはならない、
大切なものである。
「直接のお客様」は商品を買ってくださるお客様。「間接のお客様」は文明堂商品を贈ってもらったことを機に、「直接のお客様」になる可能性の高いお客様。「人気のお客様」は、実演販売などを見て購入を迷われているお客様。「声援のお客様」は文明堂に好意を抱き、宣伝してくださるお客様。たいていの商人は「直接のお客様」のことしか考えないが、世間のすべての人がお客様だと考え、またお客様になっていただくよう努力することが大切だと甚左衛門は説いている。
「増量サービス(おまけ)」を
発明し
カステラを身近なものへ
画期的な実演販売で好評を博した甚左衛門が次に発明したのが【増量サービス】土・日曜、祭日に、購入分の2割相当のカステラをおまけするというもの。高価なイメージの強かったカステラで現物のおまけがもらえるというサービスは、たちまち大きな反響を呼んだ。
昭和30年頃、カステラ2割増量のおまけに使われたサザエさんの箱
“おまけする”ということは、
お客様にとっては
この上ない
魅力である。
勝って気持ちの
よくない人はいない。
"おまけする"ことについて、甚左衛門は「お客様が勝つために、商人は負ける(まける)べき」という持論を語っている。「100円の値段を80円にまけて、20円が財布に残ったというのではまだ魅力の度が薄い。また、あとあとまで尾を引く生命が短く、展開力も少ない。その点、品物によるおまけは、はるかに効果が大きい」。常にお客様目線で物事を考えているからこそ出た意見だろう。
1923
大正12年
電気釜を開発
炭火やガス釜で焼くのが主流だったカステラの均質化・量産化を実現させるため、電気釜を開発。
過去に使われる人は、
けっして成功しない
どんなときにも果敢にチャレンジする甚左衛門。視野を常に一歩前に置き、人を育て、技術を育て、成果を社会に還元する。つまり「未来に使われる」ことが甚左衛門の願いだった。
関東大震災で店が全焼
開店から1年半、百貨店での販売は軌道に乗りつつあったが、関東大震災により店が全焼。家族で一時長崎に帰郷することに。しかしこのとき、甚左衛門には長崎に落ち着く意志はなかった。
しびれを切らし、16日後に再度上京
麻布に新店舗出店へ
6割の民家は焼失していたが、麻布エリアで貸家を見つけ、新店舗出店を決意。百貨店はこれよりも早く開店していたため、業績は順調に伸びていった。
1925
大正14年
「宮内省御用達」を拝命
実演や増量といった革命的な販売方法などを機に業績は上向いていき、この年に当時の商人にとって最高の名誉でもある「宮内省御用達」を拝命。
1926-
1927
大正15年-
昭和2年 
菓子屋には珍しい
「配達用自動車」を購入
麻布店に隣接していた呉服屋と氷屋の2軒を買取り、工場を拡張する。そして当時の菓子屋としてはごく稀な、配達用の自動車を置いた
麻布店と配達用自動車
1928-
1932 
昭和3年-
昭和7年 
逆境での構想が、新たな未来を拓く
某食料品専門デパートが、倍の給料を条件に百貨店の文明堂職人を引き抜く事態が発生。当時の文明堂は「百貨店にあるカステラの店」としてのみ知られていたため、この事態はまさに経営基盤を揺るがされるようなものだった。そして、逆境の中で甚左衛門は「自分の店で一大転換」を図ることを決意する。
踏まれても根強く保て福寿草
やがて花咲く春に会わなん
百貨店との取引からは表面上“円満な撤退”だったが、甚左衛門は辛抱強く我慢していた。このときに繰り返し口ずさんでいたのがこの歌である。「自社製品を自社で売る」という夢をひたすら追い続け、どん底から這い上がることに奮起していた。
1933-
1939 
昭和8年-
昭和14年 
念願の自社売店をオープン
甚左衛門の悲願に向けて、昭和8年には新宿店と神戸店、翌9年には横浜店、14年には銀座店を開店。
新宿店
戦前の新宿店外観
1937
昭和12年
伝説のキャッチフレーズ、誕生
文明堂を象徴するキャッチフレーズ「カステラ一番、電話は二番」が誕生。そして各地域の電話局の「2番」を買いそろえ、電話帳にも同キャッチフレーズを大きく打ち出した広告を掲載。「文明堂=2番」というイメージを浸透させるための、甚左衛門の名案だった。
昭和11年の電話帳
宣伝の中では、
無言の宣伝がいちばん必要
ここでいう「無言」とは、購買欲をそそる広告などのことではなく「定価表」のように地味なものを指している。つまり、買ってくださるお客様にも買わないお客様にも必ず行うべき宣伝のことである。例えば「定価表」のように、何も言わずとも買うものの値段が分かると、お客様は予算が組みやすくなり、買いやすくなる。甚左衛門は従業員によくこう言っていた。「買わない人にも、値段を知らせよ」。
1941-
1944 
昭和16年-
昭和19年 
戦争により製造が困難に
日中戦争の影響で経済の統制化が始まり、昭和16年にはカステラ増量サービスの中止を余儀なくされる。昭和19年にはとうとうカステラの製造を中止せざるを得なくなった。
1945
昭和20年
大空襲により、東京文明堂全店焼失
ゼロからの再出発へ
何度も繰り返された東京大空襲により、銀座店、新宿店、そして麻布店も焼失。甚左衛門は本業再開のチャンスを待ち、3年もの間自転車で東京中を駆け回った。店を運営できない間も、たくさんの方々に助けていただいたおかげで、再建の夢を諦めず進み続けることができた
1950-
1957 
昭和25年-
昭和33年 
ようやく建て直し、出店へ
一時は過労のため入院までした甚左衛門だったが、それも乗り越え、昭和26年には日本橋店を出店。中止状態が続いていた実演販売も再開した。また“東京中の名物が何でも手に入る”という点に目をつけ、日本初のデパ地下「のれん街」の実現化に没頭。その尽力が効力を示し、各百貨店からの誘いで系列店を次々に出店させる。
ものには必ずプラス面と
マイナス面がある。
それを上手に取捨するのが、
処世の達人である。
毎日東京中を駆け回っていた甚左衛門は、重要な経営資源となる情報を収集しながら「時代を見抜く力」を養っていた。時流を見据え、独自の発想で新しいやり方、新しいシステムを考えていたからこそ、この言葉が残せたといえる。
百貨店での三笠山の実演
こうして甚左衛門は、
不断の努力により
多くの苦難を乗り越え、
高級品というイメージの強かった
カステラを
親しみやすいお菓子として、
全国に普及させた。
その熱い思いは今も、
文明堂の教訓として深く浸透している。